2018-06-16

Professionalということ

私たちは学校を卒業して最後の仕上げに外国留学したいころ、何しろ1ドル360円で日本には外貨がなくて個人の留学など不可能だった。その中でオーストリアからモーツァルト誕生200年の国際会議の話が飛び込んできた。当時 東京音楽学校の教官をしていた私に話が回ってきて、もう私はこんな素晴らしい話はないと飛びつき、早速英語の論文を用意したり、着るべきお振り袖を用意したりしてウィーンに飛び立った。普通留学は20代だったが私はもう30代だった。そしてそれからドイツのボンに移り、待望のピアノの最後の仕上げに飛び込んだ。
今から考えれば、お振り袖姿の国際会議の日本代表かわいこちゃんがよくやったと思うのだが、何も知らない“外国事情”だったから、ピアニスト修行にスムーズに飛び込めたと思える節もある。とにかく無我夢中で3年間勉強して、ケンプ先生の強力な推薦のもとでBerlinのBeethovenリサイタルを開いたときは(1960年)本当に嬉しかった。
そのBeethovenアーベントは好評で終わり、ベルリンの著名なマネジャーが「私がやってあげましょう」と現れたときはこれで「ヨーロッパでのピアニストのキャリアが始められる」と思いこんだものだった。
立派な写真入りのプロスペクトもでき、これから弾くべきレパートリーのリストに目を通しながら向かい合ったマネジャーは改めた口調でこう言いだした。「いいか マヤコ。これからあなたはひとりのプロフェッショナルな音楽家なんだよ。昨日までは学生だったのが もう今日からは一人前の音楽家なんだよ。だから一人前のピアニストとして行動しなければいけない。だから持ち物だってハンドバッグにしろ服飾品ブローチにしろ何にしろちゃんとしたものを身につけなければいけない。これから地方にも演奏旅行にも行くだろうが、そこいらのペンションなどに泊まってはいけない。 どこにお泊りですか? と聞かれたら必ず一級のホテルの名前を答えなければいけないのだ。そして大事なことはもしその地にもう一度 招かれたら、あなたはその間の自分の成長ぶりを見せられなければいけない。もしその時あなたが前と同じようにしか弾けなかったら、もう二度と呼んではもらえないのだから」
本当にベルリンで数多く聴いた名演奏家のリサイタルは見事だった。まだ出たばかりの駆け出しのピヨピヨだと自認してた私はびっくりしてしまった。日本では大学を出れば一人前でその中で一番で出て新人演奏会に出ようものなら立派な一人前の演奏家だったので・・・。

ヨーロッパでの Professional という言葉はなんと厳しいものだろう。

室井摩耶子